有機野菜部の休憩中の雑談で 2015-07-21
2015年7月17日投稿分(その2)
日本農業実践学園の1ヶ月間の農業研修では有機野菜部の人たちと一緒でした。「有機JAS規格が2000年にできたあとに有機野菜部を新設して教育を開始した」とその当時の有機野菜部を立ち上げた方がお越しになられたときに話を聞くことができたので、私が見ていたのは10年ほど経過した有機JASのほ場になります。
学園の有機JASほ場は全部で8ヶ所、大小様々でビニールハウスもありましたが、ハウス栽培でも有機JAS野菜が作れることをここに来てから知りました。
茨城県と能登半島では土壌も気候も全く違いますが、団粒構造の出来上がった土壌とそこに生える雑草のイメージは実習を通じてしっかり把握出来ました。土作リに2~3年かかったとしても10年後にはここのほ場のようになっていればいいという考えになりました。
その方(名前は失念しました)とみんなで雑談をしていて「内原郷土史義勇軍資料館」の話になりました。
私は満蒙開拓団については穴水町にも戦後満州から引き揚げてきた方がいるので知っていましたが、満蒙開拓青少年義勇軍については内原に来てから初めて知りました。
その方が内原訓練所にいるときに敗戦をむかえたことを知って、そういう経緯で有機農業教育を始めたのであれば有機農業は左翼だけのものではないと確信出来ました。
私が穴水町に戻ってからあちこちの小さな耕作放棄地を借りて有機農業を始めたのは、ここの有機JASほ場のイメージがあるためです。
現在は土作りでいろいろな問題が出てきて悪戦苦闘していますが、
2012年から始めてまだ3年目です。まだまだこれからです。
写真の有機JASほ場はその中の一部です。
「内原郷土史義勇軍資料館」へは休日に一度行って来ました。
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