あれから7年過ぎた-2017-12-02

2019年10月19日

帰郷前にゴールドパックというジュースメーカーで3年ほど働いてました。

長野県で有機JAS飲料の製造ができる唯一の企業だったので委託生産もたくさんありました。

年上でガタイのいい見るからに信州男児のその人とは入社してずっと同じラインで仕事もほとんど教わりました。49才で突然亡くなりましたが、いつのまにかその人の年齢を越えていることに気づきました。もう少し一緒に飲みに行きたかった。

さて一度リセットします。

 

上の記事は自分のフェイスブックから転載したものです。

私が勤務していたゴールドパックという企業についての補足です。
この企業は東急グループの創業者の五島 慶太氏の出身が長野県だったので、郷里長野県の農業振興を目的に1959年に設立された会社でした。
安曇野工場は紙パックとペットボトル飲料の製造工場ですが、私は紙パック飲料の製造部門です。
ゴールドパックにくる前にソニー長野テック(現在はVAIO株式会社)で日研総業からの請負社員でノートパソコンの製造を2年半ほどしていましたが、モデルチェンジで製造ラインを切り替えるときの生産調整でおきる給料と雇用の不安定さが気になっていました。

新規ライン立ち上げまでの待機中は7割保障されてますが、いつからラインに戻れるのか分からないのでその間は節約生活をよぎなくされます。長期で働きたい場合はそのことを考えて生活するので、日研総業の人材募集ページで給料25万以上とあっても生産調整時の生活のために普段から倹約してました。生産調整で給料が下がっても寮費などの天引きされる金額はあまり変わらないですからね。私の場合はアパートを借りて寮を出ましたが、そもそも再雇用されるかどうかも分からないので製造ラインが終わると他の現場に移ることは普通でした。

当時はまだ2009年のリーマンショック前のことです。

それで安曇野に骨をうずめるつもりでいた私は給料が安定している企業への転職を決心しました。毎月受け取る給料はソニーよりも低いですが、年間通して安定している企業の方が生活設計がしやすいと判断したためです。

大阪の派遣会社の人材募集をとおして働かせてもらえることができましたが、しばらくしてリーマンショックが起きました。これは長野県でも深刻な影響が出て大量の派遣切りが起きたことでこの派遣会社が撤退しました。それで白馬観光という地元の派遣会社に移籍して働くことになりましたが、次の年は派遣法の改正でここも撤退しました。それで企業の契約社員として直接雇用に移りました。といっても仕事の内容は全く同じです。

ゴールドパックという企業の方は上場廃止のあと東急グループから丸紅傘下に移りました。これが2011年1月のことです。

丸紅傘下になることの説明会は事前にありましたが、2010年秋の中国偽装漁船による尖閣諸島沖での侵略行動に対する当時の民主党政権の仙石官房長官の売国的対応と実家の親父の健康問題が重なったので、東急グループから離れる機会に離職して郷里に戻ることにしました。

さらっと3年分書き出しましたが、能登半島に戻っての6年間は時間が止まってますね。6年前と同じことをずっと言われ続けてます。農業は儲からん、有機農業はなおさらだ、これだけいってもまだやるのか、つぶすぞ。

長野県の五島 慶太氏ほどではありませんが、郷里の農業振興を行政や農協に任せるだけでなく民間企業がになう必要があるかもしれないと農業後進県の石川県に戻ってみて感じてます。