プロフィール

2017年9月19日

はじめまして

のとぴぃ(notopyi)の管理者の島崎光典です。
かなり長めですが自己紹介をします。

青森県の津軽(つがる)生まれです

1965年青森県つがる市木造町生まれですが、これは母親が木造町出身だったので出産のときに帰りました。私は石川県立穴水高校普通科卒業ですが、そのときまでに2度しか青森県には行っていません。それで青森県つがる市といえば津軽弁ですが、私はほとんど分かりません。

小中学校は廃校になりました

穴水町の沿岸部分の甲(かぶと)地区にあった兜小学校と兜中学校は2年のときに廃校になりました。2年のときに生徒会長をしていたので私が最後の生徒会長でした。3年のときは比良(びら)に出来た向洋中学校に移りましたが、今は小学校になっています。校舎前のバス停が今も中学校なので知らない人が見れば間違えますね。

読売新聞奨学生で代ゼミに通ってました

読売新聞奨学生として東京の代々木ゼミナールへ通いましたが大学には進学してません。代ゼミでは国立文系コースだったので英語の佐藤 忠志(さとう ただし)金ピカ先生や世界史の武井正教先生の講義は貴重な体験でした。
「石の上にも3年」
当時の私は大学進学よりも東京で生活したいという気持ちの方が強かったです。新聞奨学生というのは親を安心させるための口実でした。それで渋谷区の初台販売所で新聞配達を3年してみてました。その間に読売販売経営学院の販売管理科で6ヶ月間、区域管理について学びました。この新聞配達員時代に体験したことがその後の私の人生を大きく変えたと思います。

最初の転職は帝国警備からロイヤルホスト

帰省ラッシュを見れば分かるように東京には田舎者の巨大な集まりのような面があります。田舎者が都会人らしくふるまうには?ナイフとフォークを使いこなして食事をするくらいしか箸しか持ったことのない私は思いつきませんでした。たまたま工事現場の警備員を2、3ヶ月くらい常駐でしていたときにそばのロイヤルホストというファミリーレストランの店長からここの工事が終わったらうちで働かないか?と声をかけてもらいました。そのことがきっかけで2年間そこでウェイターをやりました。働き始めたときは「本当にきたの?」と先輩の従業員の方たちに半分あきれらましたが警備員当時から皆さんとは挨拶をかわしていたので職場の中にスムーズに入ることが出きました。
仕事というものは誰も見ていないようにみえても誰かしら見ているものだ、ということをそのときに教わりました。

バブル時代に若い人が嫌がった陸上自衛隊へ

陸上自衛隊へは、日本以外の国には当たり前のように軍隊があります。このまま軍隊や国防について何も知らないで過ごしていいのか?それで諸外国と渡り合えるのか?という単純な動機から入隊しました。当時は希望すれば誰でも入れました。就職希望の大学生が自衛隊に見向きもせずに証券会社に入りたがった時代です。私が入隊した当時はソ連が健在だったので仮想敵国はソ連でした。竹島と尖閣諸島にはほとんど関心がなかったはずです。

阪神大震災と三宅島噴火

災害派遣出動は阪神大震災と三宅島噴火の2度経験しましたが、自衛隊は自己完結型の組織であることが災害現場の救助活動での強みです。
当然裏方役を担当する人が必要です。どんな仕事でも先入観をもたずにとりあえずやってみる。それなりに得るものはあったと思います。

通信教育で慶応大学法学部に4年在籍

大学の通信教育で慶応大学の法学部に4年間在籍していました。12年間あるのでゆっくりやれば卒業できるかもと始めに甘く考えていたので、4年間は学費を払っただけでレポートも出さずに単位はゼロでした。この調子では卒業できる見込みがないことが分かったので辞めましたが、通信教育の中退と通学の中退は違うと考えたので学歴は高卒で通しました。4年間法学部だったので六法全書だけは内容の理解は別にして法律の条文独特の書き方でもどうにか読めるようになりました。カナダのブリティッシュコロンビア大学の通信教育も1年だけやったというよりも学費を納めたら大量の教材が届きました。ここの大学の学位の方はお金を払うだけではもらえないと思います。

部内幹部候補生1次試験

陸曹(大日本帝国陸軍でいうと下士官)に昇進すると旧軍でいう将校にあたる幹部登用試験が待っています。日本の場合は他の国の軍隊とは違って 陸曹(下士官) > 幹部(将校)という評価のされ方が大東亜戦争での実戦からあります。今でもネットで検索するとその手のジョークが出てきますが、幹部になると全国規模で転勤があるので本気で幹部になりたいという人はあまり多くないでしょう。幹部になりたい人は最初から防衛大学校を目指します。基本的に幹部登用試験の受験資格があるうちは全員受験です。幹部になるつもりがないから最初から受験しないのもひとつの方法ですが、私の場合は実際にそれをやったら次の年から1年間、演習場管理事務所行きでした。それだったら1次試験だけ合格しておけばいいんじゃね?という話ですが、自動車免許の学科の引っかけ問題満載レベルでそんなにやさしい試験でもないです。ともかくこのままでは格好がつかないので猛勉強して1次試験だけは合格できました。そのときは慶応大学の通信教育で法律書を読んでいた経験が役立ちました。2次試験は受かるつもりがないところを見せるわけには行かないので、試験が終わるまでの半年間はずっとやる気があるところを見せていましたが、あれが精神的に一番つらかったです。
でも心が折れそうでつらいときでも外面は平気そうに見えるというふてぶてしい表情がつくれるようになりました。やるからにはどんな形でもいいから結果を出してみることも大事です。自衛隊にいた頃の方が代ゼミに通っていたころの何十倍も勉強していたと思います。部下に仕事をさせるときにはまず自分が良い手本をみせないといけない世界ですから。

千葉県の成田山新勝寺に1年半ほど毎朝通って

一時期自殺するか悩んで平和の大塔1階に鎮座しているご本尊の不動明王の前で自問自答していたことがあります。しかしそこまで悩む人は案外簡単には死にませんね。けっきょく死んだつもりでイチからやり直せばいいだけだと開き直りました。

千葉県成田から愛知県小牧へ

その後は愛知県小牧市にある渥美組へ愛知万博を見に行くついでといった軽い気持ちで働きに行きました。

渋谷の日研創業の派遣で長野県へ

長野県の製造工場へは東京都の日研総業の紹介で派遣社員として出かけました。長野県の企業については東京お台場にあるセイコーエプソン販売の出荷倉庫で2年ほど働いていたのでなじみがありました。最初は長野市の新光電気の工場へ。

ソニー長野テック

2度目の安曇野市にあるソニー長野テックでは私は検査工程の担当でした。製造開始から携わったVAIO TZシリーズが全台リコールされたことを退職した後に報道で知ったときにはびっくりしました。ソニー長野テックを辞めてしばらくしてからリーマンショックが起きました。

ゴールドパック安曇野工場

この会社は東急グループの創業者の五島慶太氏が出身地の長野県の農業振興を目的として 設立した会社です(今は丸紅系列)。[2016年1月18日注:2012年9月に大阪に本社のあるエア・ウォーターの子会社になりました]ゴールパックという飲料メーカーの安曇野工場で最初は大阪府のトーコーの派遣社員として働きましたが、リーマンショックの影響でトーコーさんが撤退をしてコミュニティ白馬の派遣社員に転籍しました。コミュニティ白馬さんの方も派遣業法の改正のときに撤退したのでゴールパックの直接雇用で契約社員として働きました。信州長野にいた5年間は遅刻はあっても欠勤が一度もない勤務態度でしたが、周囲も普通にそうだったので、東京にいた頃と比べても恵まれた勤務環境だったと思います。でも幸か不幸かリーマンショック前後の日本の製造派遣の混乱ぶりの真っ只中を現場で体験しました。ここにいたときは青森県果工「りんご果汁」の産地偽装の とばっちりをもろに受けました。ここの会社が上場廃止と同時に丸紅系列になることと海上保安庁の巡視船に中国漁船が体当たりした事件のときに 仙石38官房長官が船長を釈放したことがきっかけで 能登に帰ることを決めました。

穴水町に帰郷して

穴水町の甲(かぶと)地区に戻ってからは私が「島崎です」というと 「どこの島崎さんですか?」と普通に聞かれました。私ははじめは場所で答えてました。 でも屋号で答えた方がよかったかもしれません。私の場合は屋号は「仁佐(にざ)」です。 そこの分家(新宅)なので「仁佐新宅」です

過疎の進む町で今なぜ農業なのか?

農業については実家はやってないので素人です。でも本家や親戚は農家です。こっちで暮らすとなると仕事は自分で作るしかありませんが、農林水産業は自然が相手なので決して楽な仕事ではありません。そのことはここで暮らしていたから承知しています。けれども周囲で気が許せる人達が農家なので相談することは容易に出来ます。自分が始めることで農業を3K( 「きつい」「汚い」「かっこ悪い」)だの6K(「きつい」「汚い」「かっこ悪い」 「臭い」「 稼げない」「結婚できない」)と考えて継ごうとしない人も考え直すかもしれないと思いました。
今新規で就農しようとすると生活資金もふくめて大体1千万円くらい必要なんだそうです。カネが先か、知識や技術の修得が先かということでは私は知識や技術の修得を先にしました。1年間、前田農園さんに頼んで仕事をさせてもらいました。知識はインターネットの就農準備講座などで勉強しました。カネがない私はやり方を工夫してカネをなるべくかけずにする以外に方法はないと思います。まだまだこれから始まったばかりです。

政治思想について

政治思想や信条的な部分について簡単にまとめます。日本の国旗は「日の丸」であると考えています。また靖国神社に参拝することを中国や韓国に遠慮する必要はないと考えています。私は自由民主党のネットサポーターの会員ですが、だからといって右翼だとは思っていません。
2015年からは、憲法改正議論の本格化と選挙年齢が18才以上になったことで、自民党の党員になりました。2006年(平成18年)3月 19日)に亡くなられた坂本三十次先生は穴水町出身の国会議員でした。親父は初めて国政に出馬して2度落選したときからずっと変わらずに後援会のまとめ役を務めていましたが、私自身は政治とは無関係でした。けれども穴水高校1年のときに剣道部に在籍していたので一度だけ坂本三十次先生と高校の武道場で剣道の練習をしたことがあります。なぜかこの歳になってその当時の剣道着を着た姿を思い出します。「信なくんば立たず」座右の名だったそうです。

私の宗教と信条

仏教の宗派は曹洞宗です。

佐藤一斎の「言志四録」

信条ですが、佐藤一斎という江戸後期の儒学者が書いた「言志四録」の中の1節にある「一灯を掲(さ)げて暗夜を行く。 暗夜を憂うことなかれ。 ただ一灯を頼め。」(言志晩録第十三条)

[意味]提灯を掲げて暗い夜道を歩む。夜道の暗さ(自分の置かれている厳しい状況)を嘆き悲しむな。只ひたすらに提灯の一燈(僅かな可能性)を信じて迷わず進め。(東洋思想に学ぶ経営学 第7講「言志四録その7」名古屋大原学園長 杉山厳海氏より引用)

佐藤一斎という儒学者が書いた「言志四録」を知っている若い人は教科書にも出てこないのでめったにいないと思います。私の場合は高校生のときに親父の名前が変わっているので漢和辞典で調べました。土へんに且と書いて「ひろし」と読ませるのですが、役場では担当の「担」にされる文字でした。「」を漢和辞典で調べたら「ミミズの糞」という意味でした。
代々木ゼミナールに行ってから「言志四録」を読んだわけですが、著者の佐藤一斎の紹介でこの人が自分を指す言葉で使っていたことを知りました。大東亜戦争が終わるまでは「言志四録」は「菜根譚(さいこんたん)」と並んで普通に読まれていた書物だったので、そこからつけられた名前だったことにそのとき気がつきました。西郷隆盛も愛読していた書物だったこともあって私にはなじみやすい古典の書籍です。

五島慶太氏(東急グループ創始者)

五島慶太氏(東急グループ創始者)の「人間は知と行だけではダメである。 そこには必ず誰にも負けないという信念が必要だ。それには信仰で人間の意志というものを絶えず鍛錬していく必要がある。事業で成功するにしても、利殖するにしても、 不可欠なものは信念である。」
(東京市長選に伴う疑獄事件で6か月間 獄中生活を送った経験から得た哲学についての発言。大審院(大日本帝国憲法時の最高裁)で 無罪が確定した。)[名言DBより引用]信念というよりもこういう心境で仕事に打ち込めればいいなという願望です。

「無信不立」2016年1月18日追記

上の原稿は2012年3月7日に最初にまとめました。2015年5月29日に非公開設定にしていましたが、2016年1月18日に目次をつけて加筆修正をしました。非公開設定にしていたのは簡単にまとめたつもりでもそれでも思った以上に長文だったからです。バカッターでよく見かける悪事自慢はしないようにプライバシー的にやばいものは初めから入れないように注意はしています。
「無信不立」民(たみ)信(しん)無(な)くば立(た)たず、についてですが、この後は「為政者の言うことや法律を守る正直な民衆が馬鹿を見るような世の中にしてはいけない」と続くように個人的に思います。今の日本は「正直者が馬鹿をみる」世の中になってしまった感がします。

2020年の東京五輪 2016年1月18日追記

2012年からずっと「儲かるものを作って売りなさい」と言われてきましたが、私の方から「では何を作れば儲かりますか?」と逆に聞くと誰も答えられない状態が続いています。それで次に補助金をもらえるものを作れとなるわけです。他の人達はそれにのっかって儲けようということでしょうか。私が思うに農業というものは隣の人が上手く出来たからといってそれを真似をしただけで同じように上手く出来るような簡単な職業ではない気がするんですが?上手く出来たら次はその方法も教えないといけない感じがします。
それで去年2015年にJGAPの指導員を取得しました。目的は2020年の東京五輪の選手村の食事に提供できる品質の作物を穴水町で生産してひと儲けすることです。今は2016年のブラジル五輪の選手村の食事に注目しています。
「無信不立」=「正直者が馬鹿を見るような世の中にしてはいけない」ということは、「正直者が儲かって尊敬される世の中を創る」とも言い換えられると思いますが、これが難しいことは今までの歴史と現在の食品偽装事件が証明しています。難しいことを承知の上で、JGAPというGGAPと共通の規格で正直にまじめに取り組んでも十分儲かるビジネスに農業を変えていこうと考えています。2019年にはラグビーのワールドカップが日本であるのでそれまでにはという期限をつけて取り組んでいきます。

Posted by 島崎光典